島ときび酢の物語
黒糖の島で、家族の手から生まれたお酢
奄美の島々は、江戸時代から黒糖の島でした。冬になると集落ごとに製糖の小屋から湯気が上がり、人びとが総出でさとうきびを搾り、釜で煮詰めてきました。
きび酢は、その黒糖づくりのかたわらで生まれたといわれています。集落が総出でつくる黒糖に対して、きび酢は家族の手でつくれるお酢でした。
このページでは、加計呂麻島のきび酢が、家の台所から島の産物になるまでの歩みをたどります。
さとうきびと黒糖の島
奄美でさとうきびの栽培と黒糖づくりが始まったのは、17世紀のことと伝えられています。始まりの年と人については説が分かれますが、どの説でも、奄美大島の大和村が最初の場所とされています。
その後、奄美を治めた薩摩藩は、年貢を黒糖に換算して納めさせ、やがて島の黒糖をすべて藩が買い上げる仕組みをしきました。18世紀の半ば、国内で黒糖をつくれるのは琉球と奄美だけだったとされます。黒糖は藩の財政を支える産物となる一方で、島の人びとには重い負担でした。
江戸時代の終わりに奄美で暮らした薩摩藩士が島の様子を書き残した『南島雑話』には、さとうきびを搾り、3つの鍋で煮詰めてアクを取る黒糖づくりの様子が描かれています。同じ記録には、砂糖づくりは「島中第一の産物」であり、これに携わらない島民はいない、という意味の一文もあります。
明治に入って砂糖の売り買いが自由になってからも、さとうきびと黒糖は、島の暮らしの中心にあり続けました。
黒糖の釜から生まれたお酢
きび酢の始まりには、こんな言い伝えがあります。黒糖をつくるためにさとうきびの汁を煮詰めたあと、洗わずに置いておいた釜の中に、甘酸っぱい液体ができていた――。それがきび酢の始まりだといわれています。
農林水産省は、きび酢を奄美群島に伝わる伝統の食として紹介しています。それによると、きび酢は江戸時代にはすでにつくられていたとされ、のちに各家庭でつくられるようになりました。
加計呂麻島でも、かつては黒糖工場のそばにきび酢の壺が並び、それぞれの家で使う分を自分たちで仕込んでいたといいます。製糖工場からさとうきびの搾り汁をもらってきて、家できび酢をつくる人も多かったと伝えられています。
できたきび酢は、しょうゆと合わせて酢じょうゆにし、刺身に添えて食べました。食べものを保存するのにも使われました。
総出の黒糖、家族のきび酢
黒糖ときび酢は、同じさとうきびの搾り汁から生まれますが、つくり方の手間はずいぶん違います。
黒糖は、搾り汁を煮詰めて固めるもので、できあがる量は搾り汁の1割に満たないといいます。冬の製糖の季節には、集落の人が何十人も集まる一大行事でした。
一方のきび酢は、搾り汁の半分ほどがお酢になり、家族だけでも仕込むことができました。
きび酢をつくるのは、人ではなく自然の菌です。人にできるのは、菌が働きやすいように見守り、育てることだけ。だからこそ、家ごとに、年ごとに、少しずつ違う味のきび酢ができていたのかもしれません。
集落の製糖小屋の移り変わり
戦後もしばらくのあいだ、黒糖づくりは集落ごとの仕事でした。瀬戸内町には、昭和30年代に100近くの製糖工場があったといわれます。
昭和30年代の半ば、国が国内で砂糖をつくる力を強めようとしたことをきっかけに、薩南諸島では、集落ごとの黒糖づくりから、大きな工場で砂糖の原料をつくる形に切り替わるところが多くあったとされます。
加計呂麻島の佐知克(さちゆき)集落の製糖工場も、昭和36年ごろまでは集落の組合として共同で使われていました。町に大きな製糖工場ができると組合は解散しましたが、その大きな工場も7年ほどで閉じられ、昭和47年から、集落の人が個人で黒糖づくりを再開しています。
今、加計呂麻島で黒糖をつくっている工場は5つほどです。
家のお酢から、島の産物へ
家ごとに受け継がれてきたきび酢を、地域の産物として残そうと、昭和58年(1983年)、農協が県の補助事業を使って、加計呂麻島の瀬相にきび酢の工場を建てました。
それから40年あまり、きび酢は瀬戸内町の特産品として、島の外にも届けられるようになりました。
2025年4月、工場とその仕事は、瀬戸内町が出資する合同会社奄美せとうち地域公社に引き継がれました。島でつくり続け、伝統の味を次の世代へつなぐための引き継ぎです。
今も、搾ったさとうきびの汁をタンクで発酵させ、何年もかけて熟成させるつくり方は変わりません。工場では、発酵の様子を見ながら、ゆっくりと進むお酢には手を添え、あとは経過を見守ります。ほかの菌が入らないよう、タンクは新しいものしか使いません。
きび酢と黒糖の年表
さとうきびと黒糖、そしてきび酢の歩みを、年表にまとめました。
17世紀
黒糖づくりの始まり
奄美大島の大和村で、さとうきびの栽培と黒糖づくりが始まったと伝えられる(年と人は諸説あり)。
1745年
黒糖で年貢を
薩摩藩が年貢を黒糖に換算して納めさせ、さとうきびの栽培と黒糖づくりが本格化する。
1777年
藩の総買い上げ
薩摩藩が、奄美大島などで島の黒糖をすべて買い上げる仕組みをしく。
江戸時代
きび酢の始まり
黒糖の釜から生まれたという言い伝えが残る。この頃にはきび酢がつくられていたとされる。
1878年
砂糖の自由な売り買い
奄美群島で、砂糖の自由な売り買いが認められる。
1953年
日本への復帰
奄美群島が日本に復帰する。
昭和30年代
集落の製糖の移り変わり
集落ごとの黒糖づくりから、大きな工場での砂糖の原料づくりへの切り替えが進む。
1983年
きび酢の工場
農協が、加計呂麻島の瀬相にきび酢の工場を建てる。
2025年
公社への引き継ぎ
きび酢の仕事が、合同会社奄美せとうち地域公社に引き継がれる。
これからの、島のきび酢
きび酢は、黒糖の釜のかたわらで生まれ、家族の手で受け継がれ、工場で島の産物になりました。
さとうきびが育つまでに1年、お酢になって熟成するまでにさらに2〜3年。急いで増やすことのできないお酢です。
だから私たちは、量を追うよりも、まずこのお酢を知ってもらい、暮らしの中で長く使ってくれる人を少しずつ増やしていきたいと考えています。
島の外できび酢が使われることが、島の人たちの可能性につながる。そう考えながら、今日も加計呂麻島でタンクを見守っています。